Bookレビュー2011-vol.45 森博嗣『科学的とはどういう意味か』

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

震災後、最初に書かれた森博嗣の著書。

記憶型学習への批判を基礎部分に置きながら、それによって生じる「科学的な理解を忌避する態度」が、現代生活での危険をもたらすことを指摘している。
「科学的な理解を忌避する態度」とは、プロセスを把握せずに、結果だけを知ろうとすることだ。

本文中でも、東日本大震災における原発事故において、○ベクレル、○シーベルトと数値が公表されているにも関わらず、その数字の意味するところを調べずに「安全かどうかだけを知りたい」という人が多くいた点を指摘している。

例えば、高さが○メートルと示されれば、落ちても安全かどうか、命に関わるかどうかは個人で判断できる。
むしろ「○メートルから落ちると命に関わる」なんていう明確なラインは存在せず、個人の状況によると言っても良い。
例えば、頭から落ちるのか脚から落ちるのか、落下地点は硬いか柔らかいか、体重は何kgか、既にどこか怪我しているのか、などといった要因だ。
なぜそういった複雑な要因があるにも関わらず個人で判断できるかというと、これまでの落下した体験から衝撃を予想できるからだ。

一方、放射線被曝のように普段体験していない(正確には、体験しているが気にしていなかった)ことは、体験からは類推できない。
そこで、自分以外の人が体験したり調査したことの積み重ねから、確からしいと認められている情報=科学的情報から類推することになる。
つまり、科学とは全人類の体験の共有および一般化でもある。
一般化とは、誰でもできるということだ。
情報の多くは本やネットに書かれているので誰でも調べられる。

しかし、科学を忌避すると、そもそも調べようとしないので、こういった類推が出来ない。
そこで、誰かが判断してくれるのを待つしかなくなる。

しかし誰かから「安全ですよ」と言われても、それが正しいとは限らないことは明白だ。
なぜなら「利害」という科学的でない要因が介入するからだ。