年金がなければスウィングはない

日経新聞に、国民年金についての記事が出ていた。
記事のデータは以下の通り。

・2010年度の納付率は42.1%。
・低所得による納付免除者を除いても59.3%。
・年齢別で最も納付率が低い25〜29歳の納付率は46.6%。
非正規労働者の完納率は34%。

こういったデータを示しておきながら、記事中では「若い世代では年金制度への不信から保険料を払わない人もいる」という若者批判が書かれているのだが、どう考えても不信を抱くのが普通だ。


とはいえ、年金というのは、将来の自分のために払っているのではなく、今のお年寄りのために払っている。
だから、義務である年金すら払っていない人に「お年寄りを大切に」なんて言う資格はない。


一方で、多くの従業員を低賃金の非正規雇用で働かせておいて「将来に年金がもらえるか不安」なんて言っている正規雇用者も、問題外だ。(僕は非正規雇用は問題視していなく、低賃金を問題視している)
僕もそういう職場で働いているし、そういう企業から提供されるサービスや商品を買っているので、老後に年金をもらおうなんておこがましいと感じている。


「若い人が働けて、税金も年金も保険もたっぷり払う社会」が実は「お年寄りにやさしい社会」なのだが、いま見通せる範囲では、そういう社会は到来しそうにない。


この場合に問題なのは、自分がいつ死ぬかわからないことだ。
そのため、どれくらい蓄えがあれば自分が死ぬまで生活できるのか、見通しが立たない。
(論理的には、蓄えがなければ生活できずに死ぬので、どんな状況だとしても「死ぬまでは生活できる」わけだが…)

ゴールが決まっておらず、しかも補給拠点がないマラソンのようなものを、僕たちは走ることになる。
いや、そんなマラソンでは、そもそも走ることはできない。
体力を温存しながら、歩くしかない。
そこには風は吹かないし、風景も変わらない。


これを打破する方法はふたつある。

ひとつは、子供に養ってもらう。
ただし、子供が僕を養うような性格で、かつ、経済的な余裕があればの話だ。
これは、レア・ケースだろう。
ラッキー!と叫んでも良いかもしれない。

もうひとつは、ゴールを自分で決めるのである。
そこに向けて走り抜き、生き抜く。
その後は、まぁ死んでもいいかな、というようなゴールを。