2011年に読んだ本から選ぶ10冊

 
「今年読んだ本」で、「今年出た本」ではないです。


【小説編 5冊】

ゼロ年代SFの最高傑作と名高い作品。
戦争、テロ、貧困、環境、差別、情報監視社会といった現代社会が抱える問題が未解決のまま、現代から数十年が過ぎた近未来が舞台。

あまり先入観を持たずに、物語に没頭するのが良い。

神戸新聞の記者が小説新人賞を受賞したデビュー作。

社会部として警察を担当してたものの将棋担当に左遷された新聞記者、秋葉と、家庭的に恵まれず貧乏生活を送りながらもプロ棋士の夢をあきらめられない真田という、2人の30代の男性を主人公に据えた物語。

全く異なった人生を歩んできた2人が1人の女性を通して出会い、その後、奇妙な同居生活を送ることになる。

鬱屈していて怒りっぽいという主人公としては珍しいキャラクターの2人と、関西ノリの独特の会話が、物語にスパイスを与えてくれる。

また、いくつかの伏線がこっそり張ってあって、ラストにそれが明かされるという趣向もある。

文芸作品としてとても良くまとまっていて、それぞれの人物がそれぞれの道を見つけていくというドラマ性に富んだ作品。

今年の4月に映画化される、有川浩の小説。

関西の私鉄である阪急電鉄西宮北口−宝塚を舞台に、乗車した人々のそれぞれのストーリーが綴られる。

本来は別々の人生を歩む人々が同じ空間を共有する電車という場面ならではの、とても日常でとても特別なお話。

連続殺人事件と、兄妹誘拐事件が起こっている田舎の町が舞台。

主人公の「みーくん」は、クラスメイトの「まーちゃん」の下校の後をつけ、帰宅の瞬間を狙い、強引に家に入る。すると、そこには(予想どおり、予想外に)誘拐された兄妹が押入れに監禁されていて…。

バッチリとライトノベルしながら、ダーク・ホラーとして成立している。

乙一西尾維新の流れを組む文学の新潮流。

採用コンサルタント常見陽平氏による就活小説。

冴えない大学生の晃彦が、3年生の春の就職ガイダンスを皮切りに就職活動を進めていく。
就活に悩む晃彦の相談に乗ってくれるのが、アルバイト先のカフェのマスター、ジミーさんである。
ジミーさんは、なんと元大手企業の採用担当者だったのだ。
果たして晃彦は、無事に就職活動を終えることができるのだろうか。

…というストーリー。

かなりリアルな物語で、就職活動をしたことがある人なら、思い当たる節がいくつもある。
そして急展開を迎える最終章の物語は、人生の通過点としての就職活動における本書の一つの結論といえる。

一方、現役の学生であれば、物語と並行して用語の解説などがあるので、ストーリーに沿って就職活動で必要な知識を得られる内容となっている。
これを読めば、就職活動を疑似体験し、だいたいの流れがイメージできるだろう。
また、最初から読み返せば、物語冒頭の晃彦の発言や思考が幼稚なことに気付かされる。
読んでいると気付かないが、物語が進むにつれ晃彦は少しずつ大人びていっているのだ。
就職活動自体が大人へと近づく道のりでもあることを、それとなく示している。

ただ「普通の大学生の晃彦」が持っていた「普通でないもの」が唯一あり、それはジミーさんである。
普通は、ジミーさんのような採用のプロフェッショナルは身近にいない。
(大学のキャリアセンターくらいだろう)

だからこそ、本書は身近な「アドバイザー」として稀有な価値があるのではないかと思う。

【ノンフィクション編 5冊】

全人類に共通する慣習「贈与」。

これは、単に与えるだけではなく、受け取った側が返礼の義務を負うという点に特徴がある。
また、贈与に対する返礼といっても単なる物々交換ではなく、宗教的・法的・競争的・経済的・政治的な要素を多分に含んでおり、それらは全て集団的である。

本書は、世界各所および、あらゆる時代における人類社会の贈与活動についての考察を通して、現代社会が陥っている個人主義偏重を批判している。

本書で提案されているのは、貨幣経済に偏重しない、より集団社会的な人類の営みである。

震災後、最初に書かれた森博嗣の著書。

記憶型学習への批判を基礎部分に置きながら、それによって生じる「科学的な理解を忌避する態度」が、現代生活での危険をもたらすことを指摘している。
「科学的な理解を忌避する態度」とは、プロセスを把握せずに、結果だけを知ろうとすることだ。

本文中でも、東日本大震災における原発事故において、○ベクレル、○シーベルトと数値が公表されているにも関わらず、その数字の意味するところを調べずに「安全かどうかだけを知りたい」という人が多くいた点を指摘している。

例えば、高さが○メートルと示されれば、落ちても安全かどうか、命に関わるかどうかは個人で判断できる。
むしろ「○メートルから落ちると命に関わる」なんていう明確なラインは存在せず、個人の状況によると言っても良い。
例えば、頭から落ちるのか脚から落ちるのか、落下地点は硬いか柔らかいか、体重は何kgか、既にどこか怪我しているのか、などといった要因だ。
なぜそういった複雑な要因があるにも関わらず個人で判断できるかというと、これまでの落下した体験から衝撃を予想できるからだ。

一方、放射線被曝のように普段体験していない(正確には、体験しているが気にしていなかった)ことは、体験からは類推できない。
そこで、自分以外の人が体験したり調査したことの積み重ねから、確からしいと認められている情報=科学的情報から類推することになる。
つまり、科学とは全人類の体験の共有および一般化でもある。
一般化とは、誰でもできるということだ。
情報の多くは本やネットに書かれているので誰でも調べられる。

しかし、科学を忌避すると、そもそも調べようとしないので、こういった類推が出来ない。
そこで、誰かが判断してくれるのを待つしかなくなる。

しかし誰かから「安全ですよ」と言われても、それが正しいとは限らないことは明白だ。
なぜなら「利害」という科学的でない要因が介入するからだ。

郵便局で見かけたポスターから、150万円でカンボジアに学校を建てることができることを知った大学生が、イベント活動で資金を集め、学校完成までに起こったいろいろなことを日記形式で書いた本。

2011年秋に、向井理主演で映画化もされる。

好感が持てるのは、安っぽい正義感や同情心でボランティアを始めたのではなく、鬱屈した大学生活への不満から活動を始め、あくまで「自分がやりたいからやる」という態度を貫いているところ。

また、現地で感じた人々への思いや責務感を、日本では維持できないことを素直に認めている。

森博嗣スカイ・クロラ』の「二人の人間の命を消したのと同じ指でボウリングもすれば、ハンバーガーも食べる」ではないが、ボランティアをしているからと言って、常に聖人のように清く美しいわけではないし、その必要もない。

それでも医学部であることから、葉田氏は特にエイズ問題に関心を持っていて、2011年2月には自身が監督を務め、カンボジアでのエイズを取り上げた映画、『それでも運命にイエスと言う。』の全国上映ツアーを行う。その後は医者として、今度は実際に人を救っていくのだろう。

新しい民主主義の構想について書かれた本。
ルソーの一般意志という概念を柱に展開する。
一般意志については、本書の前半のほとんどが割かれているほどの内容を含むので、ここでは説明できない。

一般意志は、ルソーの時代には夢物語でしかなかったが、現代では情報技術の発達により、人々の意思を把握することが可能になった。
これを政治に使おうではないか、というのだ。

本書でいう一般意志とは「誰かが誰かに向かって言ったこと」の集積ではない。
「言うか、言わないかに関わらず、そう思っていることそれ自体」の集積(正確には、その集積に現れる多様性や差異)である。

そういう意味では、選挙や世論調査は人々の意思を反映させているかのようでいて、「誰かが誰かに向かって言ったこと」の集積でしかない。
しかも、これらは最初から「選択支」が絞られていて、多様性が失われている。
例えば「今の政権を支持しますか?」のような質問は、「震災対応には不満だが増税は賛成だ」というような意見を排除してしまう。

一方で、本書で提唱されている一般意志2.0は、誰に向けたわけでもない「ツイッターの呟き」や「GPS連動アプリによる人々の移動履歴」、「フェイスブック上の人間関係」、「グーグル検索での頻出ワードや、ワードごとの関連性」といった記録から得られる「それと意識して表出したわけではないが、表出せざるを得なかった意志」を分析し、相殺し、意味づけしたものである。
こういった意志は自由であり、多様である。

もはや、「民主党を支持しますか、それとも自民党を支持しますか?」といった質問はほとんど機能しない。
であれば、政治は「党」でもなく「選挙結果=民意」でもなく「一般意志2.0」を元に(少なくともそれを気にしながら)行われるべきだ、というのが本書の主張だと思う。

これらは一見、斬新なアイデアだが、実はすでにビジネスの世界では実装されている。

例えば、TSUTAYAの「Tカード」は日本人口の30%が保有し、多様な加盟店によりあらゆる生活材を購入する際に利用され、それによって蓄積されているあらゆる購買データ(商品、関連性、頻度、リピート率、位置)が記録され、Tカード加盟店に提供されているという。

加盟店はその「購入」という「単純で多様な欲求から現れたデータ」の蓄積を元に、「誰からもクレームや意見をもらうことなく」、事業改善を図ることができている。
もはや「そうでなければ支持されない」と言っても良い。

「民意ではなく一般意志に従う政治」とは、「クレーマーではなく購買データに従う企業戦略」に近いだろう。
もちろんクレーマーの意見にもヒントはある。
でも、それは「特殊意志」であり、必ずしも全ての意志を含有していない。

一方で、現在の政治はクレームの嵐である。
例えば、閣僚などが責任をとって辞任するのは「散々言われた後」だ。
(そういう意味では、2度の迅速な辞任をした前原氏、あるいは早々に引退した小泉元首相は「一般意志」を鋭敏に感じ取ったといえるかもしれない)

なんにせよ、政治のしくみは企業に数歩遅れをとっているわけで、その遅れを取り戻そう、という提言とも読むことができるだろう。

コンテンツのフリーな流通を提唱する岡田氏と、著作権の専門家の福井氏の対談本。

結論から書けば、「今の著作権をとりまく社会の枠組みにはムリがある」という点で両者は一致している。
ただ、一部の大人気クリエイター以外はコンテンツでは金銭を得られないと主張する岡田氏と、著作権によってクリエイターに金銭的なメリットを還元することが豊かな文化を生み出すという福井氏で意見は異なる。

ただ、さっと読んでしまうと見落としてしまいそうになるが、この意見の違いはもっと根深い部分に起因している。

というのも、岡田氏は「法律の変化がなくても」コンテンツとクリエイターを取り巻く状況は変わると主張していて、その上で「より良いコンテンツ流通のための枠組み」を提唱している。

一方で、著作権の専門家である福井氏は、法律が現行のままであれば、コンテンツもクリエイターも今のまま大きく変化しないという認識をしている(そう明言はしていないが、変化について語るときは法律についても触れている)。

個人的には岡田氏に賛成である。
法律を現状維持したところで、クリエイターやコンテンツ、それらに関わる産業も現状維持できるとは限らないのだから。