ソーシャルメディアで「身の回りの最大幸福のための最適解」を求めるということ

このブログを始めてほんの10日目の前回の記事が、思いがけず500アクセスと好評だったので、逆にプレッシャーを受けている。
デビュー作が売れた作家が、2作目を書くときはこんな気分かもしれない。
「デビュー作が一番面白かったよね」と言われないよう、頑張る。
ということで、重めのテーマである。


「最大多数の最大幸福」という言葉がある。
これは「国民の幸福の総量を最大にしよう」という考え方である。

これを、「幸福」ではなく「視聴率」に置き換えると、「視聴率を最大にしよう」というテレビ局をはじめとしたマスコミの考え方になる。
まぁ、マスコミは「自分が発信する情報は、受け取った人を幸せにする」と信じていると思うし、またそうあるべきであるから、非難するつもりはない。

なんにせよ、「最大多数の最大幸福」は、実にマスコミ的である。
1つの情報を、できるだけたくさんの人に見てもらう必要がある。
そのためには、マニアックなことは発信できない。
少なくとも、チャンネル全体、あるいは新聞紙面全体としては、老若男女が楽しめるものでなければならない。


一方、TwitterUstreamといったソーシャルメディアでは、「最大多数の最大幸福」は実現しそうにない。
「最大多数」に見てもらうには、発信者が多すぎる。
また「最大幸福」を求めるには、1つ1つの規模が小さすぎる。
とはいえ、実際のところ、「最大多数の最大幸福」を求める時代は終わっていて、そんなものが実現しなくても一向にかまわなくなっている。

ソーシャルメディアは双方向である。
1人1人が、発信者であると同時に受信者である。
「私は見てるだけで何も発信していない」という人もいるかもしれない。
それでも、「受信している」ということ(例えばTwitterでフォローすることや、Ustreamの視聴者に数えられること)は、発信者へのメッセージである。
「観測」は、それ自体が「観測されるものに影響を与える」のだ。


発信者としては「自分の発信を受信する人々の最大幸福」を求めることになる。
マスコミではそれが国民全体であるが、ソーシャルメディアでは「自分からの情報を積極的に受信しているごく一部」に対してである。
「受信していない人」のことは、ほとんど考えなくても良い。
つまり「最大多数」はほぼ無関係である。
ただし「将来的な受信者」のことは考慮すべきである。

また、受信者としては「受信する発信者」を選ぶことによって、「自分の最大幸福」を求めることになる。
「自分を幸福にしない発信者」から受信する必要はない。
ただし「将来的に自分を幸せにする可能性」については考慮すべきである。


このように、ソーシャルメディアでは「最適解」を自分で求めなければらない。
そして、その最適解は変動する。
例えば、あなたのTwitterアカウントをあなたの上司がフォロー(=受信)したら、それ以前とはツイートの内容(=最適解)が異なるだろう。
また、震災などの新しい事態が起これば、あなたはそれ以前とは違う発信者から受信する必要がある。


なんにせよ、マスコミは「最大多数」という「あなたとはほとんど無関係なもの」を相手にしている。
一方、ソーシャルメディアは、あなたが何もしなければ誰も相手にしてくれない。
しかし、少なくとも何かをすれば、あなたとその周囲に最適な解が得られるチャンスが生まれる。