「稀少な電力」は「電力格差」を生むか
電力が足りなくても、みんなが少しずつ節約して我慢すれば大丈夫、という意見がある。
これに対しては懐疑的な立場である。
なぜならば、「稀少さ」は「格差」を生むからである。
例えば、食糧は世界的には潤沢ではない。
その潤沢ではない食糧を、世界中でみんなが少しずつ我慢して分け合っているかというと、そんなことはない。
お金が無い人(国)だけが、痩せて死んでいるのが現状だ。
一方、空気は潤沢である。
どんなに貧困でも、空気が足りなくて死ぬ人は、少なくとも地上にはいない。
お金をかけて空気を買う人や、溜め込んでいる人もいない。
つまり、「格差」は「潤沢」であれば生まれない。
一方、「稀少」であれば「格差」が生まれる。
年金格差は、年金の財源が稀少だから生まれる。
賃金格差は、高給の仕事が稀少だから生まれる。
電力は、これまで潤沢だった。
需要以上の供給が、常にあった。
つまり電力は、これまでは「稀少なものの争奪戦」ではなかった。
今、東京電力の電力不足が話題だが、節約すれば何とかなるという意見が体勢だ。
それは「深刻に困らない程度に電気を使うのをやめれば済む」という意味であり、「争奪するほど電気が足りないわけではない」ということを示している。
つまり、「潤沢」とはいえないまでも、まだ「十分」なのだ。
問題は、「不十分」になった場合である。
つまり、深刻に困るほど電力が「稀少」になった場合だ。
このとき、「みんなで少しずつ我慢する」なんていう状況は、おそらく生まれないだろう。
むしろ、世界の食糧状況と同じように、お金が潤沢にあるだけが電力を潤沢に使用することになる「電力格差」が生まれるのではないかと思う。