僕たちは「無責任な顧客」になっていないか
今日、マクドナルドに行ったのだが、コーヒーをこぼしてしまった。
テーブルと椅子と床も汚してしまった。
そこで、カウンターまで行って「雑巾ありますか?」と訊いたのだが、結局、全部、店員さんが掃除をしてくれた。
しかも、新しいコーヒーまで持ってきてくれた。
これは、サービスとしてはとても良い。
ひょっとしたら「普通だ」という意見まであるかもしれない。
けれど、僕はちょっと違和感を感じた。
コーヒーをこぼしたのは僕なのだ。
店員が僕のテーブルに持ってくる途中にこぼしたのではない。
あるいは、他人が僕にぶつかったせいでこぼれたのでもない。
単なる僕の不注意である。
どう考えても、店員にもマクドナルドにも非は無い。
掃除をするのは、まだ分かる。
掃除道具は店舗の備品だし、テーブルも椅子も床も店舗の一部である。
だから、掃除するのは、店員の仕事かもしれない。
けれど、代わりのコーヒーは、なぜ出てくるのか。
もちろん、それらしい答えが無いわけではない。
経営学や経済学をかじった人は、こう言うだろう。
「マクドナルドは、コーヒーが入った紙コップを売っているのではない。コーヒーを味わうという<効用>を売っているのだ。」と。
なるほど、だとすれば、コーヒーを飲んでない僕は、まだ<効用>を得ていないから、そのためには2杯目のコーヒーが必要になる。
とはいえ、1杯目のコーヒーを失ったことについて、僕に責任が無いわけではない。
いや、むしろ僕にしか責任はない。
しかし、マクドナルドは僕の責任を問わなかったのである。
それに対して、僕は不安を感じたのだ。
こういう「お客様の責任を問わないサービス」は、「無責任な顧客」を生んでいるのではないか、と。
「無責任な消費者」とは、例えば、よく確かめもせずに買って、間違ったと言って返品をする。
使い方に問題があったのに、商品に欠陥があって壊れたといって交換を迫る。
レンタルDVDで「忙しくて返却する時間もとれなかった。だから延滞金は払わない」と言う。
これらは、改善のヒントになる顧客の意見とは違うし、無理難題をふっかけてくるクレーマーとも違う。
これらは、顧客としての責任を無視しているのだ。
それらを認めるのは、2杯目のコーヒーのようなものだ。
個別には、大した問題ではないかもしれない。
けれど、僕はそこに社会の「軋み」のようなものを予感する。