人はなぜ「未来に期待する」のか

この記事を読んだ。

「二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか」
http://d.hatena.ne.jp/thinking-terra/20110529/1306640590

今の20代前半の痛切な思いかもしれない。

けれど、一つだけ違和感がある。
それは、この部分である。

従順に生きて、臥薪嘗胆40年。その後で、次の若い世代の成果を、後払いで搾取できるような構造は、僕たちにはもう望めないのではないか。

この指摘は、正しいと思う。
しかし、これは諦観である。
この文章を思いついたこと自体が「次の若い世代の成果を、後払いで搾取できるような構造」を、「実は望んでいた」ということを表している。

つまり、彼は以前は望んでいたが、一連の体験により、「望めない現実」を知ったのだ。
「知る以前」、つまり「より純粋な欲求状態」では、「次の若い世代から搾取できるような未来社会」に期待していたということである。
その期待を基準にしているからこそ、「もう望めない」という諦めが生まれる。

例えば、「年金がもらえるかどうかわからないこと」に対して怒っている人は、「年金がもらえる未来」を基準にしている。
しかし、普通に考えれば「年金がもらえるかどうかわからない」のは明白だ。
(そもそも日本があるのかどうかわからないのだ)
それでも期待するのは、「高齢者が年金をもらっている現在」から、自分の未来を類推するからだろうか。
それとも、「今の高齢者がもらっているなら、自分ももらえて当然」という公平感から来るのか。

なぜ、人は「遠い未来には良いことが待っている」と期待するのだろう。
ひょっとすると、それは生きるための動力かもしれない。
いや、あるいはそういう「未来を期待できる社会」というのは、旧世代が作り上げた素晴らしい世界観で、僕たちはそれを享受しているのか。
だとすれば、僕たちは搾取されているのではなく、適切な報酬を支払っているだけかもしれない。

一方で、未来に対して悲観的な人もいる。
しかし、そういう人は周囲に危機感を煽ったり、それによって注目されるのが目的であり、動機が分かりやすい。(典型例が、注目されること自体が収益になるマスメディア)

また、そういう悲観的な人ほど、「自分の力でより良い未来を創ること」に積極的であり、「それが実現した良い未来」に、誰よりも期待している。

逆説的だけれど、悲観から生まれる志向と行動こそ、究極の楽観でもある。