「奇跡体験」は事実ではなく認知である

昨日、お嫁様(妻のことです)から以下のようなお話を拝聴した。
ちなみに、彼女は某医院で医療事務をなさっている。

今日、電話で山田花子さん(仮名)から予約の電話がかかってきた。
そこで、事前に山田花子さんのカルテを準備しておいた。
その後、予約の時間にやって来たが、実は高田花子さん(仮名)だった。
電話で名前を聞き間違えていたのだ。

一方、偶然、カルテが存在していた山田花子さんは、もう1年以上来院していなかった。
ところが、なんとその日に、山田花子さんが来院したのだ。

これって奇跡じゃね!?

こういった現象は、実は奇跡ではなく心理学の範疇であり、「シンクロニシティ」という名前がついている。
要は、「同じもの」が重なると、通常より特別に感じてしまう認知のことだ。

例えば、上記の現象で偶然に起こったことは、以下のような点である。

1.偶然、高田を山田と聞き違えた。
2.偶然、山田花子さんのカルテがあった。
3.偶然、山田花子さんがその日に来た。

なるほど、偶然が重なったと言っていいだろう。
しかし、下記のような点を忘れてはならない。

  • 名前の聞き違いは日常茶飯事であり、特別な事態ではない。
  • 何百人ものカルテを保管している医院であれば、高田花子と山田花子の2名のカルテがあったとしても特に不思議ではない。
  • 山田花子さんのカルテがあるということは、(カルテが存在しない人に比べれば)山田花子さんの来院の可能性は非常に高い。

「それでも、山田花子さんが、カルテを間違って出したその日に来院したのは奇跡じゃないの?」という意見もあるかもしれない。
だが、「たまたまその日に来院したから、その日に来院したことを奇跡的に感じる」だけなのだ。

おそらく、それが翌日だったとしても、奇跡的に感じるだろう。
あるいは、山田花子さんのカルテが無かったとしても、来院すれば奇跡的に感じたはずだ。
もっと言えば、たとえ山田花子さんが来院しなくても、その日のニュースで別人の山田花子さんが取り上げられても、奇跡的に感じたかもしれない。

日常は、「確率の積み重ね」で形成されている。
あなたの周りで起こっている全ての出来事は、「それ以外に起こり得たあらゆる可能性」に比べれば奇跡的と言っても良い。
それでも「日常」と表現されるのは、それが日常の本質だからだ。
だから、特に奇跡的と認知されない。
ただ単に、「シンクロニシティ」が起ったときに、心理的に偶然性を「認知しやすくなる」だけだ。

他にも、僕個人の体験としては以下のようなものがある。

イタリアに旅行に行ったときに、友人の田中太郎(仮名)が留学しているシエナという地方都市に行った。
僕はシエナの中心部の公園で、たまたま座っていた日本人に「田中太郎って知りません?」と声をかけた。
すると、その人は言った。
「え!僕、田中太郎と一緒に住んでますよ」

なんと、僕がシエナの街中で偶然に話かけた日本人は、田中太郎の留学先のルームメートだったのだ。

けれど、これも以下のような点を考慮する必要がある。

  • もし、田中太郎と一緒に住んでおらず、田中太郎を知っているだけという人でも、奇跡的に感じただろう。
  • もし、田中太郎自身を街で発見したら、もっと奇跡的だったが、それは起こらなかった。
  • そもそも、シエナという地方都市にいる日本人という時点で、田中太郎を知っている可能性は高かった。

こういう話をお嫁様にしたところ、彼女はこう言った。

「夢がないね」