読書、倍音、アンサンブル

内田樹氏が、『最終講義』で読書と倍音について触れていた。

倍音とは、2つ以上の音が重なりあうことで聴こえる音だ。
例えば、ドの音を鳴らさなくても、2つの別の音を重ねたときにドと同じ周波数で音波が重なる場合に、倍音としてドが聴こえる。

最終講義?生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

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『最終講義』で内田氏は、太宰治村上春樹を例に挙げ、彼らは複数の人格を内包した文章を生み出すことができる作家であり、その複数の人格によって生まれる倍音こそが、彼らの文章を読んだときに魅力を感じる理由であると述べている。

これについては、僕は倍音というアイデアには賛同するものの、その倍音が「複数の人格を内包した文章」から生まれるという点にはクエスチョンだ。
むしろ、以下のような意見を持っている。

一つの音は、本から鳴っている。
もう一つの音は、読者の中で鳴っている。

だから、その間に倍音が生まれる。
読書とは、その倍音を聴くことだ。
本から鳴っている音を聞くことではないのだ。

つまり、「作品そのもの」は読書を構成する要素としては半分しかない。
もう半分の要素は「自分自身」にある。

ある本がつまらなかったとしたら、それはその本とあなたとの間で、うまく倍音が鳴らなかったということだ。
音波の波長が合わなかったのである。

しかし、年月を経てあなたの状態が変わり、あなたの中の波長が以前と異なっていれば、同じ作品でも、今度は綺麗な倍音が鳴る可能性がある。

あるいは、読書とは、本に合わせて自分の中の波長を変えることかもしれない。
普段とは異なる波長で自分が音を出しているとき、僕たちは時間を忘れて物語に没入するのだ。

それはまるで、相手に合わせて音程をとるアンサンブルである。

僕たちは、アリストテレスとも、紫式部とも、マキャベリとも、夏目漱石とも、ニーチェとも、東野圭吾ともアンサンブルを奏でられる。
そこに、本という楽器さえあれば。