震災ボランティアで感じた3つのこと

8月25日から28日まで、陸前高田市への震災ボランティアバスに参加した。

震災ボランティアに行こうか、と思いついたとき、ネットでいくつかのブログを拝見してイメージを掴んだ。
この記事も、そういう人の参考になれば良いと思うが、みんなが書いていそうなことを書いても仕方が無いので、あまり書かれなさそうなことを、抽象的に書きたい。

具体的なことは、一緒に参加された方のブログに過不足なく書かれているので、こちらを参照していただきたい。

「被災地活動①―瓦礫にひまわり―」
http://magokoroasis.wordpress.com/2011/08/28/%E8%A2%AB%E7%81%BD%E5%9C%B0%E6%B4%BB%E5%8B%95%E2%91%A0%E2%80%95%E7%93%A6%E7%A4%AB%E3%81%AB%E3%81%B2%E3%81%BE%E3%82%8F%E3%82%8A%E2%80%95/


以下は、「ボランティアをしてみようか(震災支援に限らない)」というときに引っかかるであろういくつかの問題についての、僕なりの意見だ。

ボランティアって、自己満足の偽善ではないのか。
ボランティアをして、果たして役に立つのか。どうすれば、より役に立つか。
それ以外の個人的・社会的な問題を差し置いて、それをやろうとすることは、何か間違っているのか。

こういった問題を抱えている人の参考になればと思う。



1.ボランティアは慈善活動でも奉仕活動でもない

ボランティア、慈善、奉仕について、Wikipediaでは下記のような説明がされてる。

【ボランティア】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2
ボランティア活動の原則として挙げられる要素は一般に自発性、無償性、利他性、先駆性の4つである。(中略)先駆性や補完性といった概念は、ボランティア活動が既存の社会システム、行政システムに存在しない機能を創造的な自由な発想で補完するという役割を担うことから発生したものである[3]。
一方、ボランティア活動がそれに参加する個人の自己実現の場として機能する自己実現性を持つことも知られている。

【慈善】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%96%84
慈善(じぜん)とは、他人に対して情けや哀れみをかけること、また、恵まれない人々に経済的な援助をすることである。

【奉仕】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E4%BB%95
奉仕(ほうし)は、報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うことをいう。

これらに共通するのは、報酬や見返りを求めないという点だ。
これは「相手からの感謝すら求めない」という意味だ。
(つまり、ボランティアで相手からの感謝を期待するのは間違っている)

しかし、「慈善」や「奉仕」は、自分と相手の間にある「直線」だけを指している。

一方、「ボランティア」は、二次元的な広がりを見せる。
「それを行う人」にも、「自己実現性」という意味付けがなされるのだ。
相手から報酬を得ないからといって、何も得るものが無いとは限らない。
行動・体験そのものから本人の内部に何かが発生することもあるし、むしろそれが自然だ。
(つまり「奉仕」とは異なり「無私」ではない)
そして、ボランティアは内部的に生まれる「利益」について否定していない。

つまり、ボランティアに対して「偽善だ」という考えは、ボランティアそのものを誤解していると言える。




2.ボランティア組織とリーダー

ボランティア迷惑論というのがある。

乙武洋匡は「阪神大震災で被災した当事者の一言。「助けに来てくれて一番ありがたいと思ったのは、自衛隊の人たち。 一番迷惑で邪魔だったのは、自称ボランティアの人たち。こちらが必要とする事はできず、逆に残り少ない食品や飲料水をコンビニで消費していく始末」と書き込んだ。

西宮市市議会議員今村岳司は、3月13日阪神・淡路大震災での被災体験をブログに掲載し、「ボランティアの連中」のことを、「観光気分で来た自分探し」「ただの野次馬観光客です。何の役にも立ちません。」「人から感謝されることを楽しみにやってきただけ」「被災していない人間に被災者の気持ちが分かるわけがない」「ボランティアは、被災者が食うべきものを食い、被災者が飲むべき水を飲み、被災者が寝るべきところで寝る」等と攻撃し、「要はプロに任せること」「被災地に必要なのは、プロだけです。」とボランティア不要論を展開した[5]。翌日のブログでも「自分のためではなく、部隊の指揮下で日本のために自分を犠牲にできる人だけが、「ボランティア=義勇兵」として現地入りすべきです。」とした。

Wikipedia「ボランティア」より抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2

なぜ、このようなことが起こるのか。

阪神大震災のときにも「迷惑をかけるためにボランティアに参加した」という人は基本的にいないはずだ。
問題は、おそらくノウハウの欠如、そしてニーズとサービスのマッチングの問題にある。
ボランティアの要件の1つに「利他性」がある。
「利他」であるためには、何が相手の「利」になるかを把握し、それを実現しなければならないが、これは容易ではない。

この問題を解決するのは、ボランティアの組織化である。
第1に、組織にノウハウを蓄積することで、個人のノウハウ欠如を補うことができる。
第2に、人的・物的・情報的な流通を束ねることで、ニーズとサービスのマッチングを計りやすくなる。
第3に、ボランティア自身が起こしうる問題(物資や飲食料の不足、負傷など)を、組織内部で補完することができる。
第4に、組織は、個人よりも、大きなことが実現できる。

組織において重要なのは、モチベーション管理である。
一般的な仕事は、モチベーションに影響するものが大きく2つある。
1つは報酬である。
もう1つは、仕事そのものである。

「私はこんなに仕事をしているのに、あの人と給料が一緒だなんて」みたいな話はどこにでもある。
これは報酬がモチベーションに影響を与えているからだ。
しかし、ボランティアは他から報酬を求めないので、こういった問題は起こらない。

ボランティアに必要なのはただ1つ、仕事である。
そして、組織において仕事を与えるのはリーダーである。

ボランティアに必要なのは、ノウハウを蓄積し、ニーズとサービスをマッチングさせ、組織をまとめることができるリーダーである。
ゆえに、ボランティアに参加する際に重視しなければならないのは、「リーダーは誰か」である。



3.心理的な距離感−「あなた」か「わたしたち」か−

そもそも、ボランティアをする相手は、一体、誰なのか。
ボランティアの定義にあるように、それが「利他」であれば、相手は「他者」である。
しかし、「全然」知らない人に対して、なぜ利他行動がとれるのか。

個人的に、広義的な意味においてボランティアは「利他」ではないのだろうと思っている。
あくまで「わたしたち」の問題解決なのだ。
震災ボランティアに参加された方々で多かったのは、テレビなどの情報を見て「何かしなければと思った」という意見だ。
こういった形で、どこかのタイミングで「他者」から「わたしたち」へのシフトするのではないか。
(一方で、被災者にとっては他人のままであることには注意が必要だ)

海外の貧困層は支援するのに、日本の障がい者は支援しないという人もいるだろう。
これはその人にとって、日本の障がい者は「他者」に感じるが、海外の貧困層のことは「わたしたち」と感じるからではないか。
このとき、物理的な距離は問題ではない(インターネットで一層、問題ではなくなった)。

問題になるのは、心理的な距離感である。
ボランティアに興味がある方々は、「わたしたち」を形成する心理的なフィールドが、一般の人よりも広いのではないかと思う。
今回の震災ボランティアにも、消防団、医療機器販売、公務員などの公的な職業、あるいは国際的な視野を持つ人などが参加していたことが、それを裏付けるのではないか。
それが一度も会ったことがない他人だろうと、「わたしたち」の問題解決を図ることは、それと同等のことと同様に重視されてもおかしくはない。

また、「わたしたち」のためのボランティア活動であれば、その活動を通して自己内部に何か得るものがあっても、それは後ろめたいことではなく、むしろ合理性にかなっていると言える。