絶望の国の「朝まで生テレビ」

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

2月の朝まで生テレビで、『絶望の国の幸福な若者たち』を題材にして若者をテーマに討論がされていた。

と言っても、ほとんど本書とは無関係な方向に話が進んでいった(というか半分以上の出演者は読んでいなかったのだろう)ので、本書の内容も、著者である古市氏も、番組内ではほとんど出番がなかった。

出番があったのは、2つのキーワード、「幸福」と「若者」だけだ。

番組でも、「幸福」について説明を求めたり、「将来が見通せないのに今が幸福なんていうのはおかしい」という意見があった。

しかし、本書で書かれている「幸福」には議論の余地がない。
なぜなら、これは単なる感想だからだ。
例えば、「今年の春はなんだか暖かい」と言ってる人に対して、「いや、過去にはもっと暖かい春があった」とか、「10年後にはもっと寒くなるのに、何をノンキなことを言っているのか」などということを言っても、的外れである。
別に過去のことや将来のことを言っているのではなく、単に「今、暖かい」と言っているだけだからだ。

また、もう一つのキーワードである「若者」については、もっと酷い。
番組を見て一番驚いたのは、この本のタイトルであり、著者の分析でもある「現在の若者は幸福を感じている」という考えに対し、「こんなお先真っ暗な国で幸福とか言ってる若者はバカだ」というような受け取り方がされていることだ。

こういう受け取り方をしている方は、本書を読んでいないうえ、新聞や書評などで書かれている「将来が暗いからこそ若者が現在に幸福を感じる」というような文章を真に受けているのだろう。

そもそも、本書の下記のような文章を読めば「若者」について語ること自体が不可能になるはずだ。

 若者論が終わらない一つの理由は、社会学で言うところの「加齢効果」と「世代効果」の混同だ。つまり、自分が年をとって世の中に追いついていけなくなっただけなのに、それを世代の変化や時代の変化と勘違いしてしまうのである。(P59)

 つまり、「若者はけしからん」と、若者を「異質な他者」と見なす言い方は、もう若者ではなくなった中高齢者にとっての、自己肯定であり、自分探しなのである。(P60)

 「若者は希望だ」論は、その逆である。若者を「都合のいい協力者」と見なすことで、自分と社会の結びつきを確認しているのである。(P60)

以上のような、本書で書かれている内容をベースに議論することが目的であれば、もはや「若者叩き」は成立しないはずなのだ。

なのに、なぜ番組は「若者叩き」で終始してしまったのか?
そして、なぜ朝生という討論番組は「本書の内容と著者の真意に迫る」という本来の目的を達成できなかったのか?

皮肉なことに、この疑問にも、本書が答えてくれる。

 つまり、集団としてある目的のために頑張っているように見える人々も、結局はそこが居場所化してしまい、当初の目的をあきらめてしまうのではないか、ということだ。
 どんな過激に見える集団であっても、そこが「居場所」になれば当初の過激な目的は「冷却」されてしまう。

東氏が番組内で古市氏について述べた「生存戦略」とは、まさにこの「居場所」の確保である。

けれど、これはおそらく誤解だ。
古市氏には、論壇で「居場所」を得るために生存戦略を実行しようという意識は(少なくとも今のところは)ないように思える。