「逆パノプティコン社会」における正義は「寛容」

パノプティコン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%8E%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B3%E3%83%B3

パノプティコンとは、哲学者のベンサムが考案した仮想の監獄である。この監獄では、中央の監視員から全ての牢獄が見渡せるが、牢獄からは監視員を見ることができない。

一方、「逆パノプティコン」はこの逆である。
つまり、中央権力が周囲から丸見えになった状態を指す。
この表現は、ウィキリークスの解説書のタイトルとして最近になって登場した。


辞職した松本復興担当大臣の一連の発言が、昨日ネット上を駆け巡った。
あの動画を見て僕が思ったのは、「時代についていけていない、可哀相な人なのだな」ということだった。
おそらく松本氏は、自分に何が起こったのかまだ良く分かっていないのではないだろうか。
記者に向って「オフレコで」と念を押したし、主要マスコミ各社は忠実にそれを守った。
それなのに、翌日には全国民に晒されたのだ。
(主要マスコミで批判が始まったのは、東北テレビ放送後にネットでの批判が始まってからだ)


一方、今回で感じたのは、「マスコミによる視聴者への煽り」ならぬ「ソーシャルメディアによるソーシャルメディアへの乗算的な煽り」の恐ろしさである。
これは、同じインターネットでも2ちゃんねるで叩かれるのとは大きく違う。
加速度的に広まり、加速度的に断罪される恐ろしさがある。
なぜ、ソーシャルメディアでは、これほどまでに「許せない」のか。

それはおそらく、僕たちが「逆パノプティコン」に慣れていないからだ。
僕たちには、これまでマスメディアで見ていた「立派な政治家」は一面だけを捉えたものであり、実は権力者は「実は自分と同じ普通の人間に過ぎない」という基礎認識が欠けているのではないか。

これはmixiTwitterなどのソーシャルメディアでも同様だ。
例えば、B君がこう言ったとしよう。
「A君がTwitterで書いていることが普段のA君からは想像もできない。まるで二重人格だ」。

しかし、こういう感想は間違っている。

B君が言う「普段のA君」というのは、「B君が見ているときのA君」でしかない。
つまり、単にB君が「B君が見ていないときのA君」に慣れていないだけだ。
けれど、B君は「B君が見ているときのA君」のことを理想の友人だと思っているので、「TwitterでのA君」はその理想から離れており、その部分を「欠点」や「短所」だと感じる。
これは、ある意味では自然であり、仕方がないだろう。

極端な表現をすれば、「アイドルはウンチをしない時代」から「アイドルがウンチをしているのが見える時代」になったのだ。

であれば、全てが可視化される「逆パノプティコン社会」において「欠点や短所や間違いは一切許さない」という態度は、正義にはならない。

この新しい社会において、僕たちはもっと「欠点」や「失敗」や「短所」に寛容であるべきだ。