もし「新入社員にコミュニケーション能力を求める採用担当者」がドラッカーの『マネジメント』を読んだら
- 作者: ピーター・F・ドラッカー,上田惇生
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2001/12/14
- メディア: 単行本
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『もしドラ』のみなみちゃんが読んだドラッカーの『マネジメント』では、コミュニケーションについても触れられている。
ドラッカーによると、コミュニケーションは「一角獣のように未知」であるとしながら、以下のことは確かだとしている。
- コミュニケーションとは知覚である。
- コミュニケーションとは期待である。
- コミュニケーションとは要求である。
- コミュニケーションとは情報ではない。
1.コミュニケーションは知覚である
コミュニケーションでは、自分が発する内容が、相手の知覚能力の範囲内かどうかを見極めることが重要だという。
であれば、もし採用担当者が学生を面接する際に学生の知覚能力を見ているとするならば、これは完全に間違っていることになる。
面接担当者が確かめられるのは「自分は学生の知覚能力の範囲内で話せているかどうか」であり、つまり「自身のコミュニケーション力」だ。
逆に、学生の言っていることが分からないのであれば、それは学生のコミュニケーション力が不足しているのではなく、「自分の知覚能力が不足している」という可能性を考慮に入れなければならない。
しかしながら、これは採用担当者自身では判断は不可能である。
2.コミュニケーションは期待である
ドラッカーによれば、我々は期待しているものだけを知覚する。そして期待されていないものは見えもしないし、聞こえもしない。
であれば、学生にコミュニケーション力が不足しているのではなく、採用担当者の期待が間違っている、あるいは、間違っているとは言えなくても、過剰である可能性がある。
3.コミュニケーションは要求である
ドラッカーによれば、コミュニケーションは受け手に要求する。面接における学生の要求は、採用である。しかしながら、採用担当者の要求は、選別である。つまり、要求が食い違っていることが最初から明らかである。面接において、要求という意味では、そもそもコミュニケーションが成立しないのである。
4.コミュニケーションは情報ではない
ドラッカーによれば、コミュニケーションにおいて情報は必須ではない。情報は人間性を排除するほど信頼できるが、そこにコミュニケーションはない。コミュニケーションに必要なのは体験の共有である。しかしながら、未だ社員となっていない学生は、いかなる体験も共有できていない。面接で学生は「共有しているように見せかけ」ており、採用担当者はその学生を「コミュニケーション能力がある」と思い込まされてるかもしれない。
以上のことから、採用担当と学生は、そもそも「面接においてはコミュニケーションを行えない」という仮説が導かれるのだが、いかがだろうか。