なぜ赤信号はみんなで渡れば怖くないのか−心理的同期という動機

心理学はぜんぜん詳しくないので、なんとなく思ったことを書くだけである。
たぶん、専門的には、以下のような説明がされるのだろう。

集団心理
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E5%BF%83%E7%90%86

リスキーシフト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%88


イギリスで暴動が起こったりしているのだけれど、どうも「政治理念」的なものではないらしい。
「貧困問題」や「移民問題」も、きっかけとしてはあったのだけれど、どうもそれが今の状況を引き起こしているわけではないようだ。
また、これはアラブの動きと同じだけれど、この暴動はインターネットを介して広がりが見られるという。

話は変わるが。アフリカにルワンダという国があって、そこでは15年ほど前に大虐殺が起こった。
国内に2つの民族が住んでいて、一方の民族が、もう一方の民族を殺した。
死者は50万〜100万人らしい。
これは国民の10〜20%だという。
一方で、虐殺容疑で逮捕されたのは13万人だという。
これは驚くべき数字だ。
この人たちは一般人で、軍人ではないのだ。
なぜ、こんなに多くの人が殺人者となったのか。
その一つの理由として挙げられているのが(これも信じがたいのだが)ラジオである。


さて、インターネットにせよ、ラジオにせよ、メディアが大衆を煽動するというのは、ありうる話だ。
であれば、問題は「なぜ煽動されるのか」である。
いや、そもそも、それは煽動なのか?

実は、煽動というよりは、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という心理なのではないだろうか。
つまり、「みんなやってるから」という理由で、みんながやるのだ。
メディアが果たした役割は「みんながそうであるかのように見せた」ことではないか。
そこで、「みんな」と、「みんなを形成している一部である私」との、「心理的同期」が起こり、それが動機になるのではないか。

例え話をしたい。

赤信号がある。
すぐにでも渡りたいが、赤だから渡ってはいけない。
これは、「理性」であると同時に「抑圧」である。

すると、隣の人が、赤信号なのに、渡り始めた。
そのとき、「ああ、この人は、私だ」と感じるのだ。

私は渡りたかったが、我慢した。
しかし、そこに「我慢せずに渡った人」が現れた。
私にとって彼は、もう一人の「渡っていたはずの自分」だ。
そこで、心理的同期が起こる。

「なぜ、この人は私の気持ちが分かったのだろう」
「私ができなかったことを、この人はやってのけてくれた」

私の願望は実現された。
すると、もはや私は渡ったのも同然、ということになる。
もう渡ったようなものなのに、なぜ渡ることを我慢する必要があるのか。
私は渡りたいのだ。
そのとき、「理性」が破壊され「抑圧」が解放される。
「渡りたいから渡った」のではない。
実際に「渡りたいと思っても渡らなかった」のだから。
ただ、「彼が渡ったから渡った」。
それが動機だ。

だから、略奪をしたイギリスの暴徒は「略奪はしていない」と言う。
虐殺をしたルワンダの人は「自分は人を殺していない」と言う。
これは、上記のような理屈であれば納得できる。
彼らには略奪や虐殺をする動機など「最初から無かった」し、「実際にそれをしているときにすら無かった」のだから。


そうすると、問題になるのは、「ではなぜイギリスの暴徒やルワンダの人々は、暴力を抑圧していたのか」、そして、「暴力を抑圧しているのは、彼らだけなのか、それとも人類共通なのか」である。